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> 「いずみの国」の歴史
※このページは、(財)和泉市産業・観光振興協会の資料ご提供によります。
旧石器時代の石器が発見され、遠い昔から人々が生活を営んでいたと考えられる和泉市。市内には、土器、石器、木製品等貴重な文化財が数多く出土した全国有数の弥生時代の集落遺跡である池上曽根遺跡をはじめ、歴史の数々を綴るドラマとロマンがあふれています。
和泉市には、全国でも屈指の規模を誇る弥生時代の集落跡・池上曽根遺跡があり、遠い昔からこの地に人々が住み、生活を営んでいたことがうかがわれます。
また、近辺には黄金塚古墳(前方後円墳)があり、そこから出土した銅鏡は、中国の魏王から邪馬台国の女王・卑弥呼に贈られた一枚ではないかといわれています。
平安時代、清少納言が「もりは信太の山」(「枕草子」)とたたえ、多くの歌人たちが和歌に詠んだ信太の森は信太山丘陵の北部を中心に広がっていたと考えられ、その面影は、現在の葛葉稲荷や聖神社の森にうかがうことができ、特に近畿を北限とするシリブカガシが我が国最大規模の純林を誇っており、古代のこの地方の森林の姿をよくとどめていると考えられています。
シリブカガシの花と実
葛葉稲荷神社
森のふもとを熊野古道(小栗街道)がはしり、古代から熊野への参詣の道として 賑わいました。
また、この森で生まれ伝えられた「葛の葉物語」(信太妻)は、江戸時代、竹田出雲が「芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」として戯曲化し、文楽や歌舞伎をはじめ、さまざまな芸能で取り上げられ今日まで人々に愛されてきました。
森に続く信太山丘陵の大部分は明治まで聖神社の境内地でした。その後、戦前は 陸軍、戦後は自衛隊の演習場として管理されてきました。そのため、開発のはどめともなり貴重な自然や景観が残されてきました。
昔、摂津(せっつ)の国に安部保名(あべのやすな)という若者がおりました。 ある日のこと、信太大明神に参詣し、池のほとりで沐浴(もくよく)をしていますと、狩人に追われ傷ついた白狐が逃げてきました。保名は狐をかくまい逃がしてやりました。追ってきた狩人たちは保名を責め、深い傷を負わせました。
傷で苦しむ保名のもとへ、葛の葉となのる若い女がたずね介抱しました。女は白狐の化身だったのです。保名はそうとも知らず、やがて二人はともに暮らす仲となり男の子が生まれ、名を童子丸とつけて幸せな日々がすぎていきました。
六年目のある秋の日、葛の葉は庭に咲く美しい菊に心をうばわれ、うっかり正体のしっぽをだし童子丸に見つけられました。葛の葉は狐をわかればもはやこれまでと、
の一首を障子にのこして信太の森へ帰って行きました。
「葛の葉子別れ」 藤原 重夫 画
保名と童子丸は母を求めて信太の森を探しました。森の奥深くまできたとき、保名がふりむくと一匹の白狐が涙を流して二人を見つめていました。はっと気がついた保名が「その姿では童子がこわがる、元の葛の葉になっておくれ」と声をかけると、白狐はかたわらの池に姿を写すとたちまち葛の葉の姿となりました。
「かかさま」とりすがる童子をさとしながら、葛の葉は形見に白い玉を与え最後の別れを惜しんで、再び白狐となって森の奥へと消えていきました。
この童子こそ、やがて陰陽師の祖、天文博士に任じられた安倍晴明だと語られています。